今回インタビューのパワーママは、河野理絵さんからのご紹介、
私が、
- 周りの方を気遣い、先回りして貢献し、
どんなときでも優しくじっくり話を聞いてくださる、小島さんの「 利他の心」 - 仕事はもちろんのこと、
33歳ころまで競技スキーに打ち込まれ、 平日は筋力トレーニング、 週末はレースのために各地を転戦されていることからもわかる、「 ハマリ力」 - 大きな岐路に立つタイミングであっても、
おばあ様からのアドバイスを受け入れた「素直なお人柄」 - 「ネガティブな感情が生まれたら『バン!』と言って、
その思いを打消すのよ!」とユーモア交えて伝える「 チャーミングさ」 - 実現したいことは、寝ても覚めても強く思い続けて行動し、
結果実現させてしまう「想いを叶える力」 - 同じ目線で語りながらも、「正しい行いをし、
人のために精一杯貢献しなさい」というアドバイスしてくださる「 導き力」
これらを感じていただけて、
プロフィール
・氏名:小島かおり
・勤務企業について:医療関係のデータを収集し付加価値をつけてヘルスケア業界に提供する事で医療の向上に貢献する外資系グローバルカンパニーです。
・簡単な経歴:1985年に大学を卒業してから2007年まで日本IBM社で銀行システムサポート、システム構築、プロジェクト管理などを経験。その後外資系ヘルスケア向けサービスプロバイダー企業に転職し現在に至る。
・居住地:東京都世田谷区
・ご自身の年齢:50歳
・お子様の年齢:9歳、11歳
・ワークスタイル:フルタイム
現在のお仕事の内容を簡単に教えてください。
私が勤務している会社は、医療データをベースに100カ国以上のヘルスケア業界に対してビジネスを展開しています。そのデータを収集して加工するためのインフラ構築、維持、そのインフラを使って日々データを作る業務は、各国で商習慣、法律は違うものの共通部分が多いため、100カ国でそれぞれの仕組みをもつより、なるべく世界で標準化したプロセスとしくみを持って行う方が効率的です。そのため、それらのデータを作る部分、データを作るシステムを構築する部分、インフラを維持管理する部分はグローバルの組織によって運営されています。このグローバルな組織が各国のビジネスユニットを後方からサポートしているのですが私はその中で日本をサポートする組織の責任者をしております。
IBM時代に、休職されてアメリカへ留学されています。学ばれたことや、得た気付きなどがございましたら教えてください。
もともと理系が好きだった私が大学の専攻を決める時には、当時、親に女性が理系に行っても仕事はない、女子は文学部に行って大手企業に事務員や秘書として入り結婚退職するのが花道と言われました。私の母が通訳の仕事をしていたこともあり英語英文学科を専攻しましたが、海外をまたにかけて仕事をしたいという希望を持っていた当時4年間日本で勉強しただけでは英会話力という点ではまったく不十分な状態でしたので、アメリカ留学に強い希望を抱いていました。英会話という意味ではこの留学がひとつのステップ・アップでした。また海外の人々と効率的に仕事をしていくには言語習得以上に文化の違いを理解する事が大切であり、アメリカ人だけでなく世界中から留学生が集まる大学で勉強し友人を作った経験は、その後の仕事に役立ったと思います。
また、私が大学を卒業した昭和60年は男女雇用均等法が公布された年でした。その年に入社した日本IBMは、日本で最も早く男女雇用均等法を取り入れた会社の一つでしたので当時としては、先進的な社風ではありましたがまだまだ日本人女性の職業意識は現在に比較すれば低かったのです。実際、そんな私がアメリカで全然違う考え方をする女性たちに出会ったのもその当時の私には大きな刺激だったかもしれません。
社会人になってから始めた競技スキーで国体に出場されていらっしゃいます。仕事とスキーを共に極めるポイントの中で「これは!」というものを1つ教えてください。
私の父はスキーが大好きで子供の頃住んでいた埼玉県浦和市の自宅の庭に砂場をつくりそこでスキーを履いてスキーの練習のためにプロペラジャンプをしていた父を思い出します。父は定年退職後、夏はニュージーランドでスキーをし、冬は80歳になるまで富士山のイエッティーというスキー場でスキー教師をしていました。こんな父の影響をうけたのか、やりたいと思ったらとことん何をも犠牲にしてのめりこむというのが私の性格で、スキーもその私がのめりこんだもののひとつでした。
スキーには基礎スキーと競技スキーというのがありスケートでいえばフィギュアスケートとスピードスケートのようなものですが私は大学時代には、基礎スキーにのめりこみました。その当時、非常に盛んだった岩岳学生スキー大会で全国2位になったり、準指導員の資格も取りました。その後、会社に入り全く違うスキーがしたくなり競技スキーを始めたのです。基礎スキーでは結構自信を持っていた私だったのですが競技を始めて間もない頃タイムを計るとあまりの自分の遅さに愕然としました。それから火がついてまたまたのめりこみました。IBMのスキー部が目標としていた国体出場というのを目標に、仕事が終わると箱崎オフィスのスポーツジムで筋トレをして週末は長野県や新潟県に当時の愛車レガシーツーリングワゴン4WDターボを飛ばしレースに臨むという生活をしまして晴れて国体出場を果たしました。今思えば、あのエネルギーをすべて仕事に傾けていたらIBMでもっと偉くなっていたかもしれません。
でも、何事もできると信じて一生懸命やった結果、目標が達成できたという自信は、今の一生懸命やれば何でもできるという信念につながったのは確かでそれは今子供たちにも伝えたい事の一つです。
オリンピックのシステム開発に携わった時の思いをお聞かせください。
IBMは1993年から2000年までオリンピックの長期ITゴールド・スポンサーとしてリレハンメル、アトランタ、長野、シドニーの4つのオリンピック・システムを担当しましたが私はそのうち長野とシドニーのシステム開発に携わりました。
私がIBM競技スキー部で週末に大会を転戦していた1995年ごろ、3年後に開催される冬季長野オリンピックの準備が始まり社内公募があったのです。スキーとシステム開発という二つのキーワードがぴたりとはまりましたので、私は躊躇せずプロジェクトに手を挙げて希望通りアルペンスキー・システム開発のリーダーになりました。
オリンピック・リザルト・システムのユーザー(ステークホールダー)は、競技運営事務局や、テレビ局、プレスなど様々で、さまざまな業界の人たちと会議を重ねてシステムを作りました。
特にスキー連盟との会議はスイスやイタリアで開催されているワールド・カップ会場で競技運営関係者とミーティングをしたり、ローザンヌでIOC関係者とミーティングをしたりととても普通のシステム開発では味わえない経験をさせてもらいました。
IBMはアトランタオリンピックで大きなシステムトラブルがあり社会的に評判を落としていた事から長野を成功させることが当時のIBMにとってはなによりも大切だったのです。
海外での仕事を通じて気づいた事を列挙します。
外人との仕事の仕方。トップダウンのマネジメント・スタイル。
残業をしない。プロジェクトが進んでいなくても7時にオフィスを見渡すと誰もいない。プライベートライフをエンジョイ。
上にいけばいくほど仕事をする。
絶対に失敗と自ら言わない。うまくやる。
問題のあったTVグラフィックシステムをまかされた時、日本流に毎晩、集まってミーティングを開催し課題、進捗を確認した。
オリンピックのPMをされていた小島さんですから、プロジェクトclosing後に、様々なオファーがあったのではないかと思います。なぜ、日本に戻られたのでしょうか。日本でどのように仕事をしていきたいとお考えだったのでしょうか。
2000年のシドニーオリンピックが終わった当時38歳でした。スペイン、シドニーでも常に彼氏募集中だったのですがまったくそんな話がなかった私はもう結婚もあきらめて当時US本社のIBMからも仕事のオファーがあったのでUSに移住してゴルフ場の中の家でも買って仕事とゴルフに生涯を費やすのも一つの生きかたかな、、、と思い始めていました。そんな時、久しぶりに会った当時90歳だったいつも静かに笑っている祖母がその時ばかりは強い口調で女は家庭を持って子供を産まなければいけないと私に言ったのです。私はなぜかその時その言葉がとても腹に落ちて素直に従おうと思いました。実際、オリンピックの仕事で周りから評価されても究極の満足感は得られなかったのです。スペインやオーストラリアでは結構孤独でした。
出産後に復帰され、仕事と育児の両立での葛藤はございましたか。
その後、祖母の命令にしたがい39歳にして子供を授かりました。年取って授かった子供でしたので子供は本当に可愛く子育ても楽しかったのですが、1年の休職期間中は、徐々に社会の歯車から取り残された感が強くなってきました。徐々に早く仕事に戻りたいという思いが強くなり、復職した初日に初めて一人で地下鉄に乗った時の嬉しさは今でも忘れられません。
しかし、実際復職してすぐにアサインされた仕事は、メンバーが毎晩3時4時まで仕事をするトラブルプロジェクトのPMでした。カウンターパートのお客様はドイツ人で英語をしゃべれるPMを探していたのです。最初は7時にはお迎えに行っていたのが徐々に遅くなり主人にかなり頼るようになっていました。やはり子供がいるからと仕事の手を抜いているように思われるのが嫌だったのだと思います。でも、いつだったかIBMのイントラにUSの女性Executiveで子育てと仕事のバランスの仕方についてのコメントを載せていて周りに遠慮していたらバランスはとれない、感謝の気持ちを持ちつつもずうずうしく帰る時は帰る、休む時は休むという風にするのがコツだとありました。その頃から徐々に私のこころの中にも独身で子供がいなかった頃と同じようには仕事しなくてもいいのだという気持ちの変化がありました。
ご主人様と家事・育児・子供への教育などで、約束されていることはございますか。
週1回のお迎え&夕食&寝かしつけを赤ちゃんのときからお願いしています。また、朝のゴミ捨てと子供の制服のブラウスを洗濯して干すというのも彼の分担になっています。海外出張時や、海外からのゲスト来日時などのサポートも結構柔軟に対応してくれ主人のサポートがなければ今の仕事はできていないと思いますので感謝しています。
お子様が就学前に取締役に就任されています。当時、どのような心境でしたでしょうか。
一般社員だろうがマネージャーだろうが取締役だろうが仕事に拘束される時間や仕事に対する責任感はあまり変わらないのではと思います。ただ、転職したのが娘が子育ての一つのターニングポイントといわれる小学校1年生の頃だったため、他のお母さんたちほど十分に勉強や生活面で面倒をみてあげられなかったなと思います。それから震災の時の話ですが、やっと連絡がとれ子供が学校から帰れず学校で待っているのを知った時は、職場を放り出して迎えに行きたいと思いました。でも、こんな時こそ社員を見守るのが役員の仕事だと考え直し会社に泊まる事を決意しました。学校も保護者が帰れるまで責任をもって預かると言ってくれたのがありがたかったです。翌朝迎えに行った際は、私は涙ながらのお迎えでしたが子供は学校でお味噌汁やおにぎりを出してもらいおいしかったとけろっとしてました。子供は母親が考える以上にたくましいものです。震災後のいろいろな対策があったので翌日には子供を実家にあずけ、身軽な体で其のあとも会社に泊まったりして対応しました。
子育てをしていても、キャリアアップを目指す女性は、今後も益々増えていくと思われます。一方、仕事と育児の両立で葛藤されている女性も多いと思います。そのような女性へ向けて、アドバイスがございましたらお願いします。
(私がIBM時代(&結婚後出産前)、「プロジェクトが忙しすぎて、子育てのイメージがわかない。周りにロールモデルもいない。仕事はとても楽しいし学びが多いが、今後の両立を考えて、セーブする方法やキャリアを考えた方がいいか?」と質問したところ、「子供が産まれてもいないのに、あれこれ考えても意味がない。私は、子供が産まれたら、子供が一番大切な存在になった。そうなった時に、選択し前に進めばいい」とアドバイスされて、本当にその通りだと思いましたし、理屈で考えすぎない方がよいのだと感じました。当時の私と同じように、仕事・育児それぞれに対して、自分の思いを封じ込めたり、悩まれている女性が多いと感じているので、この質問をさせていただきました。)
子供を将来持ちたいと思っているとしたら早く産んで後で楽をするか、遅く産んで後で大変な思いをするかのふたパターンがありますが、私は後者でした。41歳で二人目を産んだ後は体力が消耗していてJRの階段を一気に上前あがれませんでした。(スキーであんなに鍛えていたのに!)それと子供と思いっきり身体を動かして遊ぶというのもちょっときつかったです。でも、私は、20代で子供を作っていたらろくな親になれなかったと思うので私はある程度自分が大人になってから産んで良かったなと思います。
昔、一人目の子供の育児休暇明けにプロジェクトに入っていたころ知り合った先輩女性がご自分はお子さんの子育てのために10年仕事を休んだとおっしゃっていました。子育てに集中したかったからと。そして復職して立派に落ち着いて仕事をされていました。私も早く子供に恵まれていたらそんな選択もあったかなと思います。
いずれにしても、子育ては人それぞれ、どれが正しいやり方というのはないと思います。何事も何歳になろうがやりたいと思えばできると思います。自分次第です。自分が一番やりたいと思う選択をしていけば良いのではないかと思います。
インタビューby 河野理絵 構成:椿